成逸学区散策

番号 名  称
1 若宮八幡宮
2 今宮神社旅所
3 水火天満宮
4 七野神社
5 浄徳寺
6 超勝院
7 安居院西法寺
8 大應寺
9 興聖寺
10 長栄寺
11 堀川通銀杏並木
12 瑞光院跡


【若宮八幡宮】
 祭神は男山八幡と同じくして社格は無格社である。創立年月不詳(平安時代末、1021年以前)。源頼光が当神を崇敬し、その邸内に祀ったといわれ、この地がその邸宅址であると伝えられている。また、この地を流星坊と呼ぶのは、叡山三千坊の流星坊をここに移し、当社をその鎮守としたからである。


【今宮神社旅所】
 府社今宮神社の旅所である。古記に「正暦5年(995)6月27日疫神を鎮めんがため、御霊会を修し、木工寮神輿2基を造り、船岡山に安置す。是れ今宮祭の始りなり。」とあり、その縁によって旅所をここに設けた。今の建物は天明8年(1788)焼失の後、寛政7年(1795)に再建したものである。毎年5月5日に神輿の渡御祭、15日に近い日曜日に還御祭が行われる。

5月5日の神輿の巡行の様子


【水火天満宮】
 祭神は菅原道真公で社格は村社である。延長元年(923)、醍醐天皇の勅命により建立された。この地には延長以前菅公の師法性坊尊意大僧正の別邸があった。また、悲田院の跡地でもありこの社はその鎮守であった。なお、境内に末社と稲荷社がある。


【七野神社】
 春日の大神が奉祀され社格は村社である。清和天皇の勅願により貞観元年(859)に建立された。天明8年(1788)の火災で焼失したが、明治維新の際、二条家の邸内鎮守の社を社殿として今に至る。皇室の御尊崇もあり、葵祭りの斎王代がお参りされることや、夫婦間の願事に霊験あらたかで丑の刻参りでも有名。

 写真左は本殿。右は賀茂の斎院跡の碑。


【浄徳寺】
 真宗大谷派本願寺に属する。元和元年(1615)、僧了念の開基である。元柊野にあったが近古この地に移った。

【超勝院】
 浄土宗鎮西派知恩院に属し独妙山大谷寺と号する。天正15年(1587)、僧体誉玄公が豊臣氏の命を受けて創建した。洛下四十八願所の第十一番に位する。


【安居院西法寺】
 真宗本派本願寺に属する。創立年月は数度の火災で寺記を失い不詳であるが、始祖が澄憲僧正であることから建仁3年(1203)以前である。創立当時は寺領も広く皇室の御尊崇もあったがその後織田信長に滅ぼされ、文禄2年(1593)聖覚法印の墓のあった現在の地に移り境域も縮小された。秀吉の代になって天台宗から真宗本願寺派に転じ慶長18年(1613)西方寺の寺号を付加され安居院西法寺として今に至る。


【大應寺】
 臨済宗相国寺派に属し金剛山と号する。天正14年(1586)、虚應和尚が建立した。この地には応仁の乱以前悲田院があり、文明2年(1470)後花園天皇が崩御された際に御遺骸が火葬された所でもある。境内にある織部稲荷社は当寺の鎮守社で17世紀初期に織部流茶法の祖、古田織部正が伏見稲荷から勧請したもので、織物技術上達の神として土地柄から西陣機織業者の信仰が深い。

 写真左は大應寺本堂。右は御花園院天皇御火葬所(文明2年ご崩御)


【興聖寺】
 文禄の初め、僧虚応がこの地に寺を建て大昭庵と号していたが、古田織部正重勝の素願により慶長8年(1603)興聖寺と改め虚応を開山とした。寺号は円通山興聖顕密自得禅寺である。元禄14年(1701)臨済宗に転じ黄龍寺派の本山として数十ケ寺を有したが、天明の大火(1788)後は復興も容易でなく明治の大変革以来特に荒廃し明治20年には臨済宗相国寺派に合流した。仏殿は元禄2年(1689)、庫裏は天明大火後の再建である。兜卒天曼陀羅、舜拳筆蓮花寺の名画を、また、藤堂高虎の寄付による中華供覚盤作「達磨像」を有し、顔面の描写他に類なしといわれている。

 古田織部正重勝の縁ということで茶道のお寺としても有名です。 


【長栄寺】
 真宗大谷派本願寺に属し、慶長12年(1607)僧祐了の開基である。元上華開院町にあったが元名9年この地に移転した。本阿弥陀仏は安阿弥の作と云われている。
 
【堀川通銀杏並木】
 堀川通の今出川から紫明通までの約1qに及ぶ大阪の御堂筋の街路樹と並び京都市が全国に誇る銀杏並木。街並みに四季折々の彩りを映し京都市民を楽しませてくれます。


【瑞光院跡】
 昭和37年に山科へ移転。臨済宗大徳寺派に属し、紫雲山と号する。浅野弾正長政別邸跡に慶長18年(1613)琢甫和尚を開祖として創建された。長政の法名に因んで伝正院と称したが後明暦3年瑞光院と改称。浅野長矩(内匠頭)と赤穂浪士の塚があったことで有名。瑞光院跡地には現在大日本スクリーンがある。

瑞光院 赤穂義士四十六士遺髪塔跡の碑
 堀川通鞍馬口下る西側歩道に面し(瑞光院跡地、現在大日本スクリーン製造所在地)、赤穂義士四十六士遺髪塔跡の記念碑が平成17年12月に建立されました。瑞光院は当時の院主が浅野内匠頭長矩の室、瑤泉院の縁戚にあたり、また浅野長政の別邸跡に創建されたことから赤穂浅野家の祈願寺でありました。忠臣蔵でお馴染みですが、元禄14年(1701年)、浅野内匠頭は吉良上野介への刃傷の後切腹、大石内蔵助良雄は当院に亡君の遺品を埋め墳墓の石塔を建て、以後同士密議の処としたと伝えられています。元禄15年12月、47士が本懐を遂げ、その後大石内蔵助の遺志により46士の髷の髪(47士のうち寺坂吉右衛門は切腹せず)を数個の瓶に分け入れこの地に埋め遺髪塔を建立しました。瑞光院は昭和37年に山科に移転、それに伴い遺髪塔も移転しましたが、その際、瓶の中の46士の遺髪が確認されています。
 尚、この記念碑は大日本スクリーン製造(株)が歴史、文化、学術研究の分野で社会への貢献を図る事業の一環として、日本の歴史の貴重な1ページを後世に伝えるため、討入りから300年を機に計画され建立されたものです。

赤穂義士四十六士遺髪塔跡の碑


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