成逸学区のうつりかわり
1.平安遷都以前
 成逸学区は、古代には紫野(或いは浅野)と呼ばれていた原野の一画といわれ、愛宕郡に属していた。神武天皇のご東遷の先導をした建角身命は賀茂に定住し、賀茂の地は京中でもっとも早く開けた地であった。本学区は、この賀茂に隣接しているしていることから比較的早くに開けたのではないかと考えられるが、人口の希薄な時代のことでもあり、集落としての発達はまだまだ後のことである。紫野の近くには北野、平野、上野等いわゆる七野の地名があることから、この付近は当時住民の遊歩若しくは狩猟地であったと思われる。
2.平安時代
 桓武天皇による平安遷都(794)は京に一大都市を出現させたが、本学区はその都市計画の外に残され、平安時代初期にあっては依然として貴族の狩猟地であった。平安時代中頃には清和天皇の勅願で貞観五年(859)七野神社が、延長元年(923)には醍醐天皇の勅命により水火天満宮が創立された。平安時代末期、成暦五年(995)には大宮頭に今宮神社の御旅所が、その西に創立年は不明であるがこの時期に若宮八幡宮が建立された。また、比叡山延暦寺竹林院の里坊である安居院もこの時代に創建され、大宮通から堀川通まで、寺之内から鞍馬口に至る大きな地域に坊舎が立ち並び、成逸学区の大様はこの時期に一応形作られた。しかし、まだ町というほどのものではなく、社寺を中心とする一集落に過ぎなかったと思われる。
3.応仁の乱前後
 鎌倉時代の中頃には中社町南側より寺之内にわたるところに芦山寺が移され、室町時代に入ると、能成寺、妙花院、光聚院、保安寺が建立され、この地域は大いに発展したが、応仁の乱(1467)及び永正八年(1511)の船岡の合戦でそのほとんどが荒廃してしまった。
4.豊臣時代
 応仁の乱後の復興は遅々として進まなかったが、豊臣秀吉が天下を統一してからは京政を更新させ、本学区も大いに発展した。秀吉は山内一豊に命じて七野社を修復させ、また、僧体誉玄公に超勝院を建立させ、さらに西洞院にあった西福寺を七野神社の横に移す等の市区の整理を行い、次第に民居も増加した。それに加え、この地域は洛北往来の要地でもあったので、その後の発展は著しく、ついに京坊をなし町称を付して現在の形勢を整えた。当時の学区民がどのような生業に就いていたかははっきりしないが、藤田元春氏著「平安京変遷史」によると、「上京区は室町時代から幕府の所在地として上流社会の住宅地域であり、奢侈的工芸品や、茶器、高級家具、能衣装、烏帽子の店があった。」とある。さらに、往寺より神社仏閣の他に貴族の別邸もあり古田織部正もこの地に興聖寺を建立(1603)し茶道を楽しんだこと等から推察すると肯けるところである。その後、西法寺、大應寺、長教寺、瑞光院が営まれるとこの地域の東部には寺院地帯が出現した。街並みは大宮通をはさんで両側からなる縦町が南北に並び、芦山寺や寺之内は大宮通から千本通に至るまで横町を形成していった。 
5.江戸時代
 貴族階級の住宅地として発達してきた上京は、応仁の乱後、高級織物の産地として次第に発達し、徳川時代の平和の波に乗ってついに本区も西陣織産地に包合された。以降の本学区の発展は専ら西陣としてのものである。当時の町組み編成は28ヶ町で上天神町、天神北町、下天神町、東社町、瑞光院前町が下西陣組み、残り23ヶ町は上西陣組みに属していた。地域の生業は西陣織に関係するものが多く、高機織屋仲間に所属する家もあった。大宮通はメインストリートで、商人宿、荒物問屋等の商店でにぎわった。
6.明治以降
 明治維新後の京都は、幕末動乱の後を受けて大きな変革が行われた。市民は京都を王政復興の中心地として、また新生日本の首都として期待していたにもかかわらず、東京遷都が決定し、人々は失望し京都は不穏な情勢となった。国や府はこの状況を打開するため、市制の改革や産業の振興が図られ、特に教育の普及を第一とし、自治制度のもとに小学校を設立し、優秀な人材を育成しようとした。本学区においても明治二年、上京第二番組に編成され、上京第二番組小学校(後の成逸小学校)も誕生した。ついで明治五年に第一区、同十二年に第一組、同二十五年に第一学区と名を変え昭和四年に成逸学区となった。昭和五年、新大宮通が開通して地域北部の景観が一変した。戦争中には堀川通が疎開になり水火天満宮も現在の地に移動した。

・明治の末期から大正の頃までの近辺四辺の思い出
 堀川通、御霊前通がまだ拡げられておらず、新大宮通、北大路がまだ出来ておらない頃である。疎開でなくなった旧堀川通を天王町、上御霊前通を扇町と呼んでおった。大宮通の北の突き当たりに、今宮神社御旅所の鳥居が南向きにあり、その西隣が若宮神社で、一帯を大宮頭と呼んでおった。若宮神社前を西へ行って、建勲神社参道入口前の大石標を北へ行った辺りが雲林院で、農家が散在しておった。
 賀茂川の御園橋の下手から田んぼの灌漑用の分流となって南へ流れていた上堀川の源流は、鞍馬口で疎水と合流して小川と名を変え、一方、大徳寺の東側を流れて大宮通を南下し、上立売通を東進していた川が、一条戻り橋付近で先の小川と合流したのが、現在の堀川となったのである。
 田んぼの中を貫流した堀川の源流が、現在の観音堂のある所を経て、更に玄武神社の下流あたりで堀川通を下がった所は、二又(ふたまた)と呼ばれ、付近の人々の洗濯場に利用されていた。夏にはよく母に連れられて、水遊びに興じたものであった。
 雲林院あたりの川の東側に京都織物会社の紫野工場があって、土塀に囲まれ、その北側をはさんで女子工員の寮があった。この小路は、西は旧大宮通の大徳寺横へ、東は京都師範学校の運動場へ通じておった。この運動場は付属小学校と共用で、境界にはからたちの木が植えられ、実のなる頃にはボールの代わりにして遊んだ。その北側は芥子の花畑で、師範の生徒の実習場になっていた。校舎の北はずれからは、一面の田んぼで菜の花の頃は特に美しく、雲雀が舞い上がってはさえずるのどかな情景があった。
                                                        (成逸の福祉第4号より、北仲之町尾崎氏談)


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